
素材といっても、バナーに使うとかではなく、HPのどこかで公開してもいいですよっていうために写真だ。
だから、ロゴも何も入ってないんだと思うのだが…。
俺が自宅で撮ったといえば、信じてもらえそうなくらいな微妙(絶妙)なクオリティだ。
プライバシーの問題は個人の問題だから、この子の了解が得られればどのような使い方をされても良いのだろう。
社会も同じだ。
お互いの了解があれば、基本なんでもアリになり得る。
その「お互い」が、個人対個人から個人対多数、組織対組織となっていくから、了解が得られにくくなっていく。
今、コミュニケーション能力が叫ばれているのはここにあると思う。

俺には単純に露出狂の女性らには思えないし、このことが彼女らの人生において、どのような過程になっていくのかもわからない。
人間という存在を俯瞰したとき、過去も、自分も、何もかも、解き放たれて自由になれる気がするときがある。
でも、現実の社会では、過去というものが付きまとってくるし、過去を隠し通して生きることは楽ではない。
みんな、「誰も自分を知らない世界で、一からスタート出来たらなぁ」
なんてことを考えることがあると思う。
それは可能だと思う。
ただ、今の自分が過去から出来ている事実と向き合う必要がある。
失ってもいい記憶はあっても、失いたくない記憶もある。
すべての記憶を失ってしまったら、俺はもう俺である自信はない。

それに人々は共感する。
みんながそれぞれの愛を持っていて、それを使い分け生きている。
人々がイメージする大きな愛を、俺もイメージすることが出来る。
一般的な愛のイメージ。
一般的な愛のイメージを所有しない人にとって、またはそこからはみ出した愛を持つ人にとって、愛を問うことは虚しい。
さようなら。
俺は、純粋な愛を持っていたいと思う。
それは世界に向けられたものであると同時に、一人の女性に伝わるものであってほしい。
さようなら
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